【楽曲について】
1894年の夏、マーラーはお気に入りの地であるザルツブルグ東部の風光明媚な湖畔の村、シュタインバッハ近郊に作曲小屋(机、椅子、ピアノしかない、まさに小屋)を建てました。ウィーンに拠点を移すまでの間、夏季休暇の度に訪れては、集中して作曲に取り組んでいたようです。交響曲第3番も、1895年の夏に第2部を、翌夏に第1部の順で書かれました。ちなみに短い作曲期間とは裏腹に、演奏時間は約100分と当時にしては長大で、かつては世界一長い交響曲としてギネスに認定されていたこともありますよ。
一人の“生と死”といったテーマの交響曲第2番は、ベートーヴェンや交響曲の在り方を問うのに、およそ6年という長期間を要しました。一方、その呪縛から解放され、たったふた夏で書き上げてしまった第3番は、まるでブラームスの交響曲第2番を思わせます(これらの2曲はどちらも“自然”をテーマにしていることから、それぞれ「〇〇の《田園》」と呼ばれることもありますよ)。第3番を作曲中の夏にシュタインバッハを訪れたブルーノ・ワルターが風景を眺めていると、マーラーが「もう何も見る必要はないよ。私が全部、音楽にしてしまったからね。」と言ったのは、有名な話です。机上の楽譜を離れて、目を見開けば、そこには音楽が溢れんばかりに存在していたのですね。
【標題について】
マーラー自身は、どちらかと言えば「絶対音楽」志向で、音楽は音楽のみで語るべきであるという考えの持ち主でもあったようです(「標題よ、滅びよ…!」なんて手紙を送っているくらいですから)。しかし、創作に臨むにあたっては、イメージやストーリーを想定するために標題という形を利用し、時には後付けで意味を結び付けている様子も窺えます。実際に第3番でも、初演の段階までは標題が存在し、途中何度も変更された上に、最終的に出版の時点で削除されています。ちなみに、マーラーの楽譜は書き込みが多く、奏法どころか、指揮者への指示に至るまで仔細です。当時の演奏会では“指揮”の仕事に編曲やカットは当たり前という時代でしたが、自身も指揮者だったことから、音楽を形に表現する段階までは非常に厳格に。一方、作曲者の手を離れたら、聴き手の精神世界を妨げないという自由。音楽に対峙する彼の姿勢が窺えますね。
【各楽章について】
以降の解説に付随する標題は、1902年の初演に際して配布されたプログラムの、ほぼ最終稿と言われている内容です(※付の括弧内は、他の版等で記載されている変更前のテキスト)。この時点では第1部に標題上の序奏が存在しています。また、本文中「鉤括弧」で表記している言葉は、直筆譜に書かれていた書き込み等に由来しています。いずれも鑑賞の一助となるため、あえてここで併せて記載いたします(作曲者の意図とは真逆を行くようですが…聴き方だって自由なのです)。
『夏の朝の夢』
—— 第1部 ——
◆ 第1楽章 夏が行進してくる (序奏 牧神(パン)の目覚め(※岩山が私に語ること)) (※ディオニソスの行進、森が私に語ること)
長大で自由なソナタ形式。ホルン8人によって、決然と、力強く勢奏されるメインテーマは、「目覚めの呼び声」。覚醒を促されるものの、新たな旋律が始まることもなく、重苦しい足取りが「冬」——死を意識させる無生物の世界が訪れます。まるで葬送行進曲のようなモノクロの空間で、時折ファンファーレやモノローグが鈍色に響きます。足音だけが残る先で、突然、世界に色彩と温度が吹き込んできました。春の訪れでしょうか。煌びやかな木管や弦の風が「牧神の眠り」を誘い、牧歌的な旋律を奏でます。しかし、警鐘を鳴らすようなクラリネットによる「先触れ」の音が、再び孤独な無彩色へと呼び戻すのです(元々は、ここまでを「序奏」とし、以後を「第1楽章」としていたようです)。
無音ののち、再度訪れた「冬」。今度はトロンボーンが長い詠嘆を歌い、やはり閉ざされたまま、「牧神の眠り」へ。くすぐるような温かさ(啓慤、という言葉を思い出します)は、すぐに警告音に振り払われ、やって来るのは、軍隊風の行進曲。ついに、「夏が行進してやってくる」のです。緑豊かな行進曲が頂点に達すると、突如小結尾を迎え、トランペットが吼える「苦痛」と共に、怒涛の上行音型が連なります。
さあ、展開部の始まりです。再びホルンが長い主題を歌い、トランペットのモノローグが語られ、お次はトロンボーンへ。巡る独り舞台が口寄せるのは、「牧神の眠り」と、予感——そう、二度目の「夏の行進」です。しかし、先ほどとは様子が異なり、「無頼の徒」が意思を持って「騒乱」を巻き起こします。やがてトロンボーンのメインテーマと、ミリタリーマーチのテーマが真正面から衝突し、「戦闘開始」です。激しくぶつかり合う管弦に「先触れ」を告げると、弦楽器による細かい音型が、激しい「南方の風」を巻き起こし…再現部へと進みます。 再現部、というものの、メインテーマの存在感を改めて示した後は、提示部より一層重厚で豊かになったオーケストレーションと、これまでに登場した要素を遺憾なく組み合わせて織り上げられたことにより、濃縮された時間を体感させてくれます。マーチに乗せて駆け上がった主題が頂点を迎えると、疾走感溢れるコーダで断ち切るように第1部を締めくくります。
—— 第2部 ——
◆ 第2楽章 野の花たちが私に語ること 古い舞曲であるメヌエット(A)と、軽快な踊り(B)が交互に訪れるABABAs形式です。マーラーは「これまでに書いた中で…花だけがそう在りうるような、最も屈託のない作品」と語っています。連綿と連なる旋律が楽器たちを渡り歩き、時に応じて風に揺れる「静かに咲いている花」たちの囁き声を遠くに聞くようです。一転してBでは、「蜜を求めて飛び回る蝶と、それを追いかける子どもたち」とのこと。2回目のBでは、ルーテ(枝や竹ひごなどを束ねた打楽器)が一瞬だけ登場しますよ。無邪気な子どもたち、蝶々は捕まえた?…作曲者はこう続けます。「しかし、無邪気な花のような軽快さはいつまでも続く訳ではない。…突風が野原を吹き抜け、花や葉を揺るがす。より高い世界へ救い上げられることを懇願するかのように、叩いてはすすり泣くのだ。」
◆ 第3楽章 森の動物たちが私に語ること(※夕暮れが私に語ること) スケルツォ風(A)、トリオ(B)の、ABAB+コーダ。自作の歌曲『少年の魔法の角笛』より《夏の交代》に由来する作品です。季節の変遷とともにカッコウが死んで、夏の歌い手がナイチンゲールに交代する、という巡る時間を歌ったもの。トリオではポストホルンが舞台裏で演奏します(今回は舞台最上段で演奏します)。N.レーナウの詩『郵便馬車の御者』等に触発されたと言われており、そもそもこの楽器は郵便馬車の発着を知らせる小型のナチュラルホルンが発展したもので、コルネットの先祖にあたります。ちなみに軍楽でも用いられており、1回目の長大なソロが終わるときに響くトランペットのファンファーレは、オーストリア陸軍の「帰営合図」の引用だとか。この楽器の奏者が何者なのか、想像させますね。
◆ 第4楽章 人間が私に語ること(※夜が私に語ること) ここから最後までは続けて演奏されます。幽玄な前奏に続いて、メゾソプラノソロが登場し、ニーチェの著『ツァラトゥストラはこう言った』より、ゾロアスター教(拝火教。ドイツ語でツァラトゥストラ)の教祖に仮託した作者の言葉を歌います。夜しかない空間に置き去りにされたような寂寥感の中で「おお、人よ」と呼びかける声。「聴くが良い」という言葉には、優しさが滲み出ているようです。夜、どこまでも暗く深い世界、しかし、そこは火のような温度がある——マーラーの音楽が、そう語り掛けてくれるようです。
◆ 第5楽章 天使たちが私に語ること(※朝の鐘が私に語ること、カッコウが私に語ること) 一転して、明るい朝の到来です。児童合唱は「なるべく高い場所で」歌うように指示されており、「夜明けを告げる鐘」の音が、まさに天から響きます。歌詞は『少年の魔法の角笛』より《3人の天使が歌った》に由来し、新約聖書「ペテロの否認」が題材です。鶏が鳴くまでに三度、「イエスなんて知らない」と偽証し、十戒のひとつ「嘘をつかない」を破った物語が前提にあります。女性合唱と独唱(ペテロ)が対話するように進行しますが、前楽章での懊悩が、ここで救済されたかのようですね。
◆ 第6楽章 愛が私に語ること(神が私に語ること、父なる神は僕の傷口を見てくださる) 最終楽章は器楽合奏に戻り、ABCA_BCA_C_Aという構造です。マーラーの作曲は、初めに設計図ありきではなく、あるフレーズが浮かんだら、それをとことん発展させるスタイルです。そのため、曲全体でフレーズ同士が共鳴することが多々あり、殊にこの楽章では、第1楽章との関連性が強く表れています。始めは弦楽合奏によって静かに主題が奏され、繰り返す度に旋律が晴れやかに変奏されながら、木管、金管が加わり、時間を掛けて確実に声部が拡大してゆきます。そこには、確かに言葉は必要ないかもしれないと思わせる、音楽自身が持っている意味や力を感じられます。 (「第7楽章 子どもが私に語ること」(天上の生活)) 「第7楽章 子どもが私に語ること」として《少年の魔法の角笛》より歌曲《天上の生活》に基づく楽章を採り入れる予定でしたが、第6楽章のボリュームが膨らみすぎたためか、こちらは第4番の第4楽章に回されました。
【おわりに】
各楽章で提示されていた標題において、表層的には自然界における時間の流れ(1日であり季節であり)を描いていると同時に、無機物→草花→動物→人間→天使→神(=愛)→天上という、人間世界を越えたヒエラルキーを見出せます。それと同時に、楽曲全体及び各楽章からは循環する構造も読み取れるでしょう(削除された標題の“子ども”という存在は象徴的です)。あたかもニーチェの「永劫回帰」を想起させますが、個の営みを包有しながらも大きく巡るサイクル、今一度“自然”に目を向ければ、時間や季節の巡り、そして水の循環などをイメージします。人間も自然。ならば、同じように巡るのが、人の在りようなのかもしれません。
最後に、この曲にまつわるマーラーの言葉として、当時の婚約者宛に送った手紙の一部をご紹介します。「…私が大きな作品に取り組んでいるということは、君に知らせたね。…全世界が実際にそこに映し出されるような、巨大な作品を考えてごらん。そこでは人は、いわば宇宙が奏でるひとつの楽器に過ぎないのだ。…私の交響曲は、世界の誰もが未だかつて聴いたことのないものになるだろう!そこでは、あらゆる自然が声を得て、人が夢の中で予感したことがあるかもしれない、深遠な秘密を語るのだ。」
国立音楽大学音楽学部音楽文化デザイン学科卒業 大塩聡子